三和機工は1936年の創業以来、モビリティと昇降機の分野で 三菱電機グループとともに歩み続けてきた製造パートナーです。
時代の変化に合わせて技術領域を広げながら、現場力を磨き続けてきました。
創業者・坂田坂太郎は、三菱造船の電機工事部門で技術幹部として経験を積み、重工系電機技術の基礎を確かなものにしていた。
その後、三菱電機神戸製作所に移り、電機製品の製造現場でさらに腕を磨く。
来る昭和11年、所長は坂田の技術を信頼し、工場の一角を託して新たな加工業務を任せた。
坂田はその場所に作業場を設け、絶縁材の加工を開始した。
この取り組みが、三和機工の実質的な操業の始まりとなった。
三年間の操業を経て、坂田は三菱電機から正式に退職の許しを得る。
独立の地として選んだ姫路市御国野町は、神戸製作所に近く物流に優れ、広い土地も確保しやすい環境だった。
加工業が根付く姫路の産業基盤も追い風となり、坂田はこの地に工場を建て、直流モーターの製造を開始する。
“三菱“と“和して”ものづくりに貢献するという創業の思いを込め、社名「三和機工株式会社」を掲げ、正式に事業を開始した。
戦後の復興需要とともに製造業が活気づき、三和機工も設備投資を進める。
加工精度の向上、品質管理体制の整備、治具の工夫など、
協力工場としての信頼を高める基盤がこの時期に形成された。
直流モータの需要は依然として大きかったが、産業界が交流化へ向かう流れに合わせて、交流モータの製造にも取り組み始めた。
その後、三菱電機の昇降機事業の展開(神戸から名古屋、そして稲沢へ)とともに歩み、エレベータ用巻上機の部品製造へと参入する。
ここで「上がる」分野の技術基盤が確立され、昇降機事業との関係は一段と深まっていった。
三菱電機姫路製作所の事業拡大に伴い、自動車用発電機(オルタネータ)構造部品の製造を開始。
これにより、従来の昇降機(上がる)に加えて、自動車(走る)という新たな事業軸が確立される。
当時の自動車産業は高度成長期の真っただ中で、電装品の需要が急増。
三和機工は精密加工技術を磨き、量産と品質の両立が求められる自動車分野で
着実に信頼を積み重ねていった。
この時期に培った「寸法の安定性」「量産品質」「工程管理」のノウハウは、
その後の事業全体の基盤となり、三和機工の成長を大きく後押しすることになる。
自動車用発電機部品の需要増加に合わせ、加工設備の増強・工程の自動化を進める。
加工精度の向上、治具の内製化、工程内検査の強化など、
量産品質を支える仕組みづくりが本格化した時期となる。
三菱電機姫路製作所との取引は拡大し、「走る」分野における主要サプライヤーとしての地位を確立。
自動車電装品は三和機工の事業の大きな柱となっていった。
大容量巻上機の需要拡大に対応するため、大容量巻上機専用の製造棟を新設。
大型部品の組立に対応できる体制が整い、昇降機事業への貢献度がさらに高まる。
組織体制の整備に合わせ、事務所棟を新築。
管理・技術・生産の連携が強化され、品質保証体制もより高度なものへと進化していく。
明石海峡大橋の塔内エレベータ用巻上機製造に参画。
世界最大級の吊り橋の内部を支える重要部品を手がけ、技術力の高さを示す象徴的な案件となる。
更なる大容量の巻上機生産に対応するため、既設15tクレーンから20tクレーンへ改修。
大型巻上機の製造能力が飛躍的に向上し、より高度な案件に対応できる体制が整う。
三菱電機が上海タワー向けに開発した世界最速エレベータ(分速1,230m)の巻上機製造に参画。
ギネス世界記録の達成に貢献し、三和機工の技術力が世界レベルで証明される。
自動車用部品と交流巻上機を中心に、三菱電機グループと協力しながら、
モビリティと昇降機の両分野を支える製造パートナーとして歩み続けている。
創業から80年以上、積み重ねてきた技術と信頼を次の世代へつなぎながら、
これからも「図面を裏切らないモノづくり」を追求していく。